تسجيل الدخول凜からの電話が鳴ったのは、夜の十時を回った頃だった。 議長の命令で端末が戻ってから、まだ半日も経っていない。画面に凜の名前が浮かんだ瞬間、俺は寝台から跳ね起きていた。外出を禁じられているはずの凜が、こんな時刻に何を伝えてくるのか。『兄さん、今から話すことを最後まで聞いてください』 凜の声は、走ってきた後のように息が上がっていた。 地下の通路を抜けて書記室に忍び込み、台帳の原本を撮ったこと。偽の署名は京都ではなく、この館の書記室第三端末で作られていたこと。操作者の欄には梶谷の名前があったこと。そして、その梶谷本人から、手書きの紙を渡されたこと。 これらを凜の口から聞くことができた。「待て。梶谷が、お前に証拠を渡したのか」 楢崎のメッセージにあった名前が頭の中で凜の話と重なった。結衣を撮った男が写真を送った先も、梶谷の名前だった。『兄さんの言いたいことは分かります。私も、あの人を信じたわけではありません』 凜は一つ息を吸った。『でも、あの人は自分の潔白を私たちの手で確かめろと言いました。「十四日の午後、自分はジュネーブの銀行で監査に立ち会っていた。その銀行の入館記録を兄さんのロンドンの財務責任者に照会させろ』と』 自分から逃げ道を塞ぐ男が罠を張るとは考えにくい。少なくとも、確かめる価値はある。『それと、もう一つ。大垣常務の陳述書は先月の十日に作られていました』「十日? 承認は十四日だろう」『はい。まだ起きていない決裁について、四日も前に証言していたことになります』 背中に冷たいものが這い上がった。 大垣は自分の意思で嘘を書いたのではない。書かされたのだ。それも十日より前から何かを握られていた。そして一昨日から、大垣とは誰も連絡がつかない。『最後に、梶谷さんはこう言いました』 凜の声が硬くなった。『エドモンドが日本で雇った協力者は、写真を撮った男だけではない。その者たちが、日本の朝にもう一度動く、と』 時計を見た。こちらの夜十時は、日本では朝六時だ。「凜、録音はあるか」『全部、録ってあります』「俺に送れ。それから、お前は部屋を出るな。今夜はもう、何もするな」 通話を切ると同時に、楢崎の番号を押した。『隼人様』 楢崎は一度目の呼び出し音で出た。眠っていなかったのだろう。「今日、結衣を幼稚園へ行かせるな。家から一歩も出す
私は紙を見下ろしたまま、口を開いた。「なぜ、私に」 梶谷さんは答えなかった。黙ったままの相手に、私は言葉を重ねた。「あなたは聴聞の間で私の言葉を遮りました。半円の真ん中で、私に向かって『代理如きが発言する場ですか』と言い放ったのも、あなたです。その人が今夜、私に証拠を渡す。信じろと言う方が無理です」「信じなくて結構です」 即答だった。「誰かが、私の名前を使っているんです」 梶谷さんは指を一本ずつ折った。「一つ。日本で結衣さんを隠し撮りした男は、撮った写真を評議会の連絡用アドレスへ送っていました。そのアドレスの持ち主として登録されているのは私です。隼人さんは、もうご存じでしょう」 二本目の指が折られる。「二つ。あなたの名前で偽の承認を作ったのは、記録の上では私です。あなたが台帳で見たとおりです」 三本目。「三つ。大垣常務の陳述書を評議会の証拠として受け取り、記録に登録したのも、書記である私の名前になっている」 梶谷さんは折った指をほどいた。「写真を受け取ったのも、署名を偽造したのも、嘘の陳述書を通したのも、全部私。記録だけを見れば、そういう筋書きになります。この偽造が明るみに出たとき、エドモンドは『書記が勝手にやったことだ』と言うだけで済む。最初から、私が罪を被るように組まれているんです」 梶谷さんは眼鏡を外し、レンズを袖で拭った。「車の中で、私は『あなたには血も記録もない』と言いました。私にも、血はありません。十三家の出ではない。記録しか持たない人間が、その記録ごと罪を着せられれば、何も残りません」 眼鏡をかけ直した目が、まっすぐ私を見た。「私はあなたを助けたいのではありません。自分が生き残りたいだけです。善意だと言われるより、その方が信じやすいでしょう」 突き放す言い方だった。けれど、この館に来てから耳にしたどの言葉よりも、嘘の匂いがしなかった。 私は机に手を伸ばし、紙を取った。「受け取ります。でも、信じたわけではありません。一つ目は、兄さんに確かめてもらいます」「それでいい。確かめる人間の方が、信じる人間より長く生き残る」 梶谷さんの視線が、私の上着のポケットに向いた。「録音も、そのまま続けてください。今夜私が話したことは、あなたの側にしか残らない」 気づかれていた。いつから? とは聞かなかった。 廊下の奥
逃げ道の床板までは十歩。梶谷さんは書記室の入口に立っている。走れば届くかもしれない。けれど、名前を呼ばれた時点で隠れていることに意味はなくなっていた。 私は上着のポケットの中で端末の画面に触れ、録音を始めた。それから書架の陰を出た。「こんばんは、梶谷さん」 床板を背にする位置で足を止める。梶谷さんとの間には、机が一つ挟まっていた。「別棟から出ることは禁じられているはずですが」 梶谷さんは咎めるでもなく、事務的な口調でそう言った。 私は顎を引き、言い返した。「書記室への立ち入りも、今夜は禁じられているのではありませんか。それとも、禁じられたのはエドモンド審問官だけでしたか」 梶谷さんは答えず、眼鏡の位置を指で直した。視線が私の足元に落ちる。靴が泥水で黒く濡れていた。「……貯蔵庫の通路を通ってきたのですか。規約の付録の図面まで読んだ人間は初めて見ました」「読めるものは全部読みます。三百ページでも、それ以上でも」 凜は右手を上着のポケットに入れたまま、中の端末を握り続けた。録音していることを悟られるわけにはいかない。「台帳を見ました。承認履歴の原本です。署名が作られたのは京都ではなく、この部屋の第三端末。操作者は評議会書記、梶谷玲司」 凜は一息に言い切って、梶谷さんの顔を見据えた。「あの署名を作ったのは、あなたですか」「記録の上では、そうです」 梶谷さんは否定しなかった。「先月十四日、ここの時間で午後三時。私はジュネーブにいました。この館にはいなかった」「記録は、いくらでも書き換えられる。飛行機の中で、そうおっしゃったのは貴方です。貴方がいなかったことを示す記録も同じように書き換えられるのでは?」 私は彼の言葉を否定的に返した。 梶谷さんの口元がわずかに動いた。笑ったのだと気づくまで、少し時間がかかった。「ええ。ですから、評議会の記録では証明しません」 梶谷さんは上着の内側から、折り畳んだ紙を取り出した。「この館の端末には、誰が何を開き、誰に何を送ったか、すべて記録に残ります。私が今あなたに資料を送れば、その瞬間にエドモンドの側へ筒抜けになる。ですが、手で書き写した紙なら、どこにも跡は残りません」 梶谷さんは紙を机の上に置いた。「——あなたのお兄さんのやり方を借りましたまでです」 その一言で思い出した。聴聞の初日、端
別棟の部屋に戻されたのは、正午を少し過ぎた頃だった。 扉の鍵は今朝と同じように外からかけられた。議長は端末の返却を命じたが、私の権限停止と外出禁止を解くとは言っていない。それでも、膝の上に置いた端末の重みが、閉じ込められた部屋の空気をほんの少しだけ変えていた。 私は真っ先に楢崎さんの番号を押した。二度目の呼び出し電話が繋がる。『凜様。ご無事でしたか』「結衣ちゃんは」『ご自宅におられます。昼寝から目を覚まされて、今は台所で凜様と作ったケーキの話をなさっています』 膝から力が抜けて、寝台の縁に手をついた。受話口の向こうで足音が遠ざかり、やがて小さな声が飛び込んできた。『凜お姉ちゃん?』「結衣ちゃん、元気?」『うん。元気。お姉ちゃん、いじめられてない? シール、ちゃんと貼ってる?』 手帳の表紙の裏を指でなぞった。苺のシールは、角が少しめくれかけていた。「ちゃんと貼ってるよ。だから、お姉ちゃんは誰にも負けてない」 嘘ではなかった。少なくとも、まだ負けてはいない。 結衣ちゃんが楢崎さんに端末を返すまでの短いあいだ、私はずっと目を閉じていた。この子の声を聞くために、私はこの三日間を耐えてきたのだと思った。そして、この子をもう一度怖がらせないために、ここで手を止めるわけにはいかないのだとも…… 次に電話をかけたのは、京都支社の警備部だった。「先月十四日の夜、副会長室の入退室記録を確認してください。午後十時から翌朝まで」 警備部の主任は、十分ほどで折り返してきた。『副会長室の扉は、十四日の午後七時十二分に施錠されて以降、翌朝八時四十分まで一度も開いておりません。役員フロアへの立ち入りも、その間はゼロです』 思った通りだった。十四日の深夜、私の端末は鍵のかかった引き出しの中で、誰にも触れられずに眠っていた。 つまり、あの承認は京都で行われたものではない。 だが、それを証明するには、まだ証拠が半分ほど足りなかった。京都で作られていないと示すだけでは、エドモンドは「どこか別の場所で、凜が自分のIDを使った」と言い張るだろう。どこで誰の手で作られたのか。それを示せるのは、評議会の書記室に眠っている承認履歴の原本だけだ。「大垣常務につないでいただけますか」『それが……常務は一昨日から出社されておりません。体調を崩されたと伺っておりますが、ご自宅
その夜、俺は一睡もしなかった。 卓上灯の下に写真を置き、隅から隅まで眺め続けた。幼稚園の正門と黄色い帽子の列、苺の髪留めをつけた結衣。撮られたのは、道を挟んだ向かいの公園の植え込みの陰からだろう。手前に、ぼやけた枝の影が写り込んでいる。 写真の右端、門柱のそばに、灰色のコートを着た男が半身だけ写っていた。京都支社の警備部の男だ。楢崎が付けた護衛に違いない。 結衣のそばには、楢崎の人間がいた。それは救いだった。だが同時に、護衛が立っているその目の前で、誰かが結衣を撮っていたということでもある。 中庭で係員に詰め寄ったのは間違いだった。端末を返せと声を荒らげても、返ってきたのは「規則です」の一言と、三人がかりで押し戻す腕だけだった。怒りをぶつければぶつけるほど、エドモンドの言った「娘の前では何も言えない男」に近づいていく。 だから、朝までに決めた。声は荒らげない。この館の連中が掲げている「規則」と「公正」を、そのまま連中に突き返す。 *** 午前九時、聴聞の間。 半円の端では、今朝も一条家の席が空いたままだった。重蔵の名を刻んだ真鍮の名札の向こうで、十二家が席に着いていく。昨夜、凜の権限停止に手を挙げた顔ぶれは、どれも落ち着き払っていた。勝負はもうついた、と思っている顔だった。 凜が傍聴席に連れてこられた。目の下に薄く影ができている。眠っていないのは、俺と同じらしい。それでも凜は俺と目が合うと、手帳を胸の前で軽く持ち上げてみせた。 書記席の梶谷は、俯いたまま顔を上げなかった。 議長が杖で床を打った。「昨夜の暫定措置を踏まえ、審問を続ける。審問官」 エドモンドが立ち上がった。「本日は、一条グループの経営権を評議会の預かりとする件について、改めて採決を求めます。副会長の権限濫用が明らかになった以上、もはや議論の余地はないでしょう」「議長」 声を上げたのは凜だった。「同席者として、事実の確認をさせてください。私は昨夜、規約第二十二条に基づき、承認履歴の原本の閲覧を書面で請求しました。まだ回答をいただいていません」 半円がざわついた。第二十二条の存在を、ここにいる何人が覚えていただろう。 エドモンドは表情を変えなかった。「その請求は審問官の権限で保留とした。審査の進行を妨げる目的が明らかだったのでね」 議
別棟の扉には、外から鍵がかけられていた。 聴聞の間から連れ戻されて、二時間が過ぎている。夕食の盆を運んできた係員に、兄さんに会わせてほしいと頼んだ。梶谷さんを呼んでほしいとも頼んだ。どちらにも、返ってきた言葉は「規則です」の一言だけだった。 私は寝台の端に腰を下ろし、膝の上で手帳を開いた。表紙の裏では、結衣ちゃんが貼ってくれた苺のシールが卓上灯の明かりを受けて小さく艶を返している。 権限の停止。別棟からの外出禁止。そして、重蔵の経路を引き継いだ女という汚名。 半年前と同じだ、と思った。本家の円卓で、誰ひとり私を見ようとしなかったあの日。鎖に繋がれた地下室で、自分は本当にこの家の人間なのかと問い続けたあの夜。あの時も、私の名前で動く承認履歴が私の知らないところで書き換えられていた。 けれど、あの時の私と今の私は違う。黙って誰かが助けに来るのを待つつもりはなかった。 私は手帳の頁をめくった。 先月十四日、午後十一時二分。エドモンドが掲げた承認履歴の日時だ。 私は予定も出来事も、その日のうちに手帳に書きつける癖がある。征之の一件のあと、身を守るために始めた習慣だった。十四日の頁には、私自身の字でこう記されていた。『結衣ちゃんの誕生日の前夜。ケーキの試作、三回目でようやく膨らむ。二人とも小麦粉まみれ。寝かしつけ、零時過ぎ』 あの夜、私はペントハウスの台所にいた。結衣ちゃんと並んでスポンジを焼き直し、膨らまなかった二つを二人で笑いながら食べた。午後十一時二分には、オーブンの前で三つ目の焼き上がりを待っていたはずだ。 そして業務端末は、京都支社の私の机の引き出しの中にあった。征之の件以来、支社を出るときは必ず端末を引き出しに入れ、鍵をかけている。 つまり、あの承認は私の端末から出たものではない。誰かが深夜の支社に入り込んで私の端末を使ったのか、それとも、私のIDだけを写し取って別の場所から承認を通したのかのどちらかだ。 どちらにせよ、京都支社の入退館記録を見れば分かる。十四日の深夜、私の部屋に誰かが入ったのか、それとも誰も入っていないのか。 その記録さえ取り寄せられれば、反撃の糸口になる。だが、今の私には電話一本かける手段もなかった。 もう一つ、胸に刺さったままの棘がある。 大垣常務の陳述書だ。『深夜に単独で決裁を行った』 承認の時刻を知
「結衣、いい子にしてなかったから……ママ、結衣のこと嫌いになっちゃったの?」 その涙に、さすがの絵里香も言葉を失う。気まずげに視線を逸らし、小さく舌打ちをした後、「……そんなこと、言ってないでしょ」と呟いて寝室へ逃げるように消えていった。 胸の奥が激しく痛む。俺は結衣の小さな体を強く抱きしめた。「違うよ。結衣は世界一のいい子だ。パパがずっと一緒にいるから、安心して眠りなさい」 俺は結衣の小さな背中を優しくさすり続けた。 しゃくりあげる声はやがて規則正しい寝息へと変わり、泣き疲れた娘の身体からすっと力が抜ける。 その小さな身体を抱き上げてベッドへ運び、毛布を掛けた。 明日、あの女
冷たい雨がアスファルトを叩く音を背に、俺は自宅マンションの重い扉を開けた。 玄関は薄暗く、静まり返っている。濡れたコートを脱ぎ捨て、リビングの照明をつけると、そこには目を背けたくなるような現実が待っていた。 テーブルの中央に置かれたバースデーケーキ。六本のロウソクは火を灯されることもなく、生クリームは完全に乾ききって、ひび割れている。傍らには、結衣が一生懸命に描いた『ママの似顔絵』が、主役の帰りを待ちわびたまま、ぽつんと残されていた。 表面上は平静を保っていたつもりだったが、内面はすでに決定的に壊れかけている。 俺はソファに深く沈み込み、両手で顔を覆った。 過去の記憶が薄暗いリビ
俺の言葉に絵里香は鼻で笑い、周囲の経営者たちへ聞こえるほど大きな溜息をついた。「何を見間違えたのか知らないけれど、大袈裟に騒がないで。誤解よ、誤解。海外のビジネスシーンでは、これくらい当たり前の親愛の情だわ。本当に器の小さい男ね、あなたって人は」 絵里香は血相を変えるどころか、軽蔑を隠そうともせずに言い放った。「自分の無知を棚に上げて、大事な祝賀会の席で醜態を晒すなんて。恥ずかしいから、もう口を開かないで」 そこへ、横に立っていた樹が一歩前に出た。顔に張り付いた完璧な営業スマイルは、その奥の嘲笑を隠そうともしていない。「旦那様、あまり絵里香さんを困らせないでください。彼女は今、我
夜八時。リビングのテーブルには、結衣の名前が書かれたバースデーケーキと、不格好なリボンが結ばれた小さな箱が置かれていた。「パパ……ママ、まだお仕事終わらないの?」 五歳になる娘の結衣が、画用紙に描いた『ママへの似顔絵』を胸に抱きしめたまま、泣き出しそうな顔で俺を見上げている。 今日は結衣がずっと楽しみにしていた大切な誕生日だ。俺は娘の頭を優しく撫でると、スマートフォンを取り出して、妻である絵里香に電話をかけた。 数回のコールの後、苛立ちを含んだ声が耳に届く。『何? 今、ホテルで重要な祝賀パーティーをしているの。用がないなら電話してこないで』「今日は結衣の誕生日だ。ケーキを買って







